心神同源

気づきから始まるすべての道

柳宗悦の美意識から思うこと

 かなり前に読んだ本に『民芸とは何か』という本があった。その本は私がまったく求

 めていたものだった。今から思うと美意識というのはこの場面で美しいと感じなさいと

子供の頃から知らず知らずのうちに叩き込まれてきたものがあった。それは掃除をして

綺麗になった、整理整頓して美しい気持ちがいい、確かに清々しい感じはする。

 

確かに一直線に植えられた大根、仏壇の輝き、桜の花は直感に美しいと思う花ではあ

る。江戸時代に河川の氾濫を防止する目的で両岸に桜が植えられ、お花見をする人たち

が花を愛でることで地盤も強化されることを意図したという。私が習っている華道など

は、華道理論と言うものがあって基本的には法則に則って活けあげていく。すなわちそ

 れは生け花人が共通の美意識でもって共感を得る為である。

 

「これは素敵ね」と思うのは端的に言えば法則性を持たせているからである。またそれ

は同じ流派の生け花人にしか通じない共通の美意識でもある。伝承させていくためには

共通の概念を持続させる必要がある。まあそれはそれでよい。

 

宗悦は、美を目的とし人に気に入られる為に造られた作為的な作品を好まない。例え

ば床の間飾りの天然石の煌びやかな置物とか。そうではなく、人の為に使われる日常使

いのいわゆる日用品というものに美を見出した。それを「用の美」と宗悦は名付けた。

雑多な器であったり、民芸品と言われるようなもの古民家の器類、調理器具、掃除道

具、工具など「人に使われて初めてその使命を全うするもの」に美を感じたのである。

 その道具たちは使命を持って誕生し、人に使われることで磨きがかかりさらに美を兼ね

 備えていく。華道でも轡を花留めとして使うことがある。轡の使命は花留めではない。

 馬の口に当てて手綱をつなぐ馬具である。先人がこれは美しいと感じたので花留めに使

われるようになったのだ。代表的なものは伝統工芸品と言われるようなものではない

か。

 

定義は100年以上の歴史を持ち日常使いのものだったと思う。わかり易いのは桐や

欅の箪笥などの家具。部屋に置くだけでもインテリアとして美しい。曲げわっぱのおひ

つや弁当箱、漆器 陶器、などは比較的手に入れ易い。時代が変わって高級品のイメー

 ジだが、周知のとおり100年以上前は当たり前の道具たちだった。そんな庶民の道具に

 美を見出して広く知らしめたい、普段の生活で「用の美」を感じてもらえたらと考えた

 のが宗悦の美意識だった。決して作為ある煌びやかで高価なものを批判しているのでは

 ない。それはそれでよい。ただ、有名作家の作なので値段も張って人気があるので間

 違いないと買い求めて愛でるだけだとすれば、味気ないではないか?と言っているだけ

 だと思う。NHKドラマ『黄金の日々』で千利休ルソン島の何の変哲もない壺を良いと

 言ったものだから旦那衆がこぞって高値で競り落とそうとするような場面があったと思

 う。それを思い出す。

 

宗悦は、美を追求した美術家の作品と民芸や工芸と言われる職人の作品を共存させよう

としたが宗悦も直感的かつ個人主義ではないかと批判され関係者からの反発にあったら

しい。美意識は千差万別で良いとは思うものの。

 

話は飛ぶが今回の「表現の不自由展」はどうだろう。美はあったのだろうか。

今回の件は、公金が使われた催しにおいて、多くの人々に不快感を与える作品の展示が

有効かどうかが問われていると思う。 美意識は、仲間同士である程度共感できて無理

をしない範囲で楽しめて生活に潤いを与えるものであって欲しいと思う。その為の「表

 現」が信憑性を疑うような悲哀に満ちて直訴するようで、皆に共感を得られるどころか

滑稽としか思えないものであってはならないと思う。